金閣寺の『こう見たら面白い!』
【ちょっとブラっと知らない金閣寺の旅へ】
京都へ旅に出かければ必ず一度は訪れるであろう金閣寺。
拝観料を支払い参拝門を境内に入ると、直ぐに金色に輝く金閣を見る事が出来ます。
ガイドブックや旅番組でよく見かける事のあるそれは荘厳な景色でもあり、京都観光のシンボルです。
池越しに金閣で記念写真を撮ってしまうと、境内を散策して拝観は終了となる・・・。
この有名観光地で記念写真を撮り、次の観光地GO!と言う観光パターンは自分でもやっていました。
今回は「黒いサングラスをかけてぶらぶら歩く」某テレビ番組の京都編で多くのガイドをされてる
梅林秀幸さんと歩く「まいまい京都」のプランでのフィールドワークを基にした、バスガイドも
おそらく説明してくれないであろう金閣寺の楽しみ方を紹介いたします。
正式には鹿苑寺と呼ばれる金閣寺は、鎌倉時代から室町時代にかけて、時の最高権力者の邸宅として
造られました。JR京都駅の北北西、約7km、標高差約74mの大文字山の裾野で市中を見下ろすような高台に
平坦な土地があるのでしょうか? この地は鎌倉時代から室町時代にかけて土地を造成工事して出来た
巨大な人口地形なんです。今に至るこの地の原型は室町時代前期の足利義満が造営した邸宅「北山殿」です。
義満の死後、邸宅な寺院「鹿苑寺」に変わり今まで続いています。
実は、最近の調査研究によって「北山殿」自体にも母体があったらしい事がわかってきました。
鎌倉時代前期に有力貴族「西園寺家」の邸宅「北山第」が造られ、その場所が【地図2①】あたりにあったとされています。山裾を高さ約5m、幅約400m削り、その土を南側に運搬して広い平坦地を造成しました。
その名残が【地図2①】のあたりの切立った斜面です。《①写真》
また【地図2②】の寺の入口から拝観口までの通路に小高い段差がありますが、造成時の南端の名残と考えられています。《②写真》
金閣寺(舎利殿)の撮影スポットといえば、鏡湖池の南側からの【地図2③】が有名です。《③写真》
「北山殿の寝殿」義満の邸宅は現在の「方丈」のあたりにあったのではと推測されています。
義満の見ていた【地図2④】からの景色は南側からのそれとはまた違います。《④写真》
遠景には庭園の背後に衣笠山、前景には右側に舎利殿や左側に池中島があり、池の中に小島が点々と配置することで、前景と後景との間の空間を飾っています。
日本庭園の多くは、眺める人がどこから見るかを意識して設計されていると言われています。
この位置から義満が日常的に庭を眺めていたかも?と考えながら眺めてみるのも良いかもしれません。
金閣は平安時代の「神殿造」を継承した住宅様式の一層、当時流行の宴会場「会所」を思わせる二層。
仏堂様式の三層。そして屋根の上には「鳳凰」という豪華絢爛な建物です。
また、鏡湖池ある南側からの金閣と日本庭園の雰囲気からすると北側の金閣の建物の雰囲気は窓も無く、舞台裏な感じがします。
室町時代の僧侶が残した文献によりますと、「金閣の北側に天鏡閣があって複道によって繋がっている」という記録があり、両方の建物間を二階建ての「複道」という渡り廊下を使って行き来ができたそうです。
しかし、天鏡閣は複道と共に撤去されて現在は金閣のみが残っています。
金閣寺の拝観順路に沿って進んでいきますと、鎌倉時代の巨大工事後の5mの壁に沿って鑑賞点を見ていきます。その中に「龍門瀑」という人口滝を見る事が出来ます。高さ2.3mの滝が足元の小川に注いでいきます。「鯉の滝登り」を表現しています。日本庭園での「滝」を配置する時の多くは、「滝から池に直接流れ込む」造りが多いようです。そう考えると、この滝が足元の小川に流れ込むのは少々寂しい感じがします。
ここで《⑤写真》を見てみると金閣の北側の造りと鏡湖池の汀線が、池の南側の凝った造りと比較すると、何となく雑というか簡単な素気無い感じになっているように見えませんか?
京都市埋蔵文化研究所がこのエリアの地質調査をしたところ、鏡湖池が今の場所よりも北側に広がっていたらしい事を推測させるデータを発表しています。
今の鏡湖池は室町時代にできたままの広さではなく、室町後期の応仁の乱で広範囲が破壊された記録があります。
その後、江戸時代前期に庭園を修復されたのですが、その時の修復工事の結果が今の汀線になった様です。もしかするとですが「龍門瀑」の前まで池が広がっていたのかもしれません。
また、金閣の北側から5mの壁の辺りまでの広い空間【地図2⑤】の昔はどのような景色だったのかを想像しながら拝観順序を進むのも面白いかもしれませんね。
金閣から崖沿いの龍門瀑を堪能。その横の階段を登り切った辺りは、下のエリアとは違う雰囲気になっていると思います。この「安民沢」【地図2⑥】
ですが、下にある「鏡湖池」に比べると穏やかな雰囲気です。《⑥写真》
近年の調査で護岸や地表から鎌倉時代の瓦も採集されています。
どうやらこの「安民沢」は、義満の前、西園寺家の「北山第」の庭園がそのまま残ったものと推測されています。
池の護岸は海岸を思わせるような洲浜であることがわかりました。
「洲浜護岸」と「楕円形の中島」で構成される「浄土式庭園」は平安時代中期以降に各地に広がった庭園様式の特徴を表しています。
鹿苑寺の拝観順路の最後に「不動堂」があります。西園寺家が「北山第」を造営する際に人工的に平坦地にした土地に建立されたと考えられます。
少し変わっているのは、この不動堂の「本尊の不動明王像」がお堂には無くお堂の後ろにある山を掘りぬいた石室の中に安置されているのです。
つい最近の2003年に石室に刻まれた文字から1340年~1350年(西暦換算)の年号が判読されたました。これは、義満が「北山殿」を造成した1397年よりも、前に不動堂がこの地にあり、西園寺家の「北山第」造成の影響を受けているかもしれない事がわかります。
鎌倉時代に「北山第」を訪れたことがあるかも?とされている人がいます。
その人物とは小倉百人一首でも知られる藤原定家です。1225年の1月に訪問した藤原定家は豪華な邸宅が出来たということでその感想を日記に記したそうです。
その中で「高さ四十五尺(約13m)程の滝があった」という記載がありました。
今では不動堂の周辺には滝は存在しませんが、不動堂の右側の奥【⑦写真】の赤丸の辺りには高さが約10mの崖があります。また、崖の頂上部には滝があったかも思わせる遺構も発見されています。
「不動堂」のすぐ横の崖に「滝の遺構」。山岳信仰の中では「不動」と「滝」の組み合わせは重要とされており邸宅の一部としても優れた風景が広がっていたのかもしれません。
金閣寺(鹿苑寺)は京都観光の中ではシンボル的な場所です。何度か訪れた事はあるのですが、金閣を見て後はスルーしてしまっていました。
今回のフィールドワークと資料を組み合わせて見直しをしてみると、今までと違った金閣寺を知る事ができました。
京都の有名観光地には、観光ガイドブックには記載されていない魅力が沢山隠れています。
少しだけ調べてから出かけてみると、また違った風景を想像する事ができます。是非とも歴史も満載の京都へお出かけください。
(参考文献:京都の凸凹を歩く2 梅林秀行著)